源頼家の墓 みなもとのよりいえのはか
碑・像・塚・石仏群 歴史
基本情報

正治元(1199)年父・源頼朝の死後家督を継いで、源氏二代将軍となったが4年後、北条氏の策略で当地に幽閉され、翌年 元久元年(1204年)入浴中に23才の若さで暗殺された。指月殿境内に頼家の墓がある。
住所 | 伊豆市修善寺 |
アクセス 公共交通 | 伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅から東海バス修善寺温泉行きで8分、終点下車、徒歩5分 最寄駅 > 修善寺駅(伊豆箱根鉄道)~2.69km |
アクセス 車 | 最寄IC > 修善寺IC(修善寺道路)~1.296km 熊坂IC(修善寺道路) |
TEL | 0558-72-2501 |
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レポート
2015年3月11日(水)源頼家の墓へ立ち寄ってきました。
源頼家(みなもと よりいえ)は鎌倉幕府の第二代将軍(在任1199年-1203年)で、源頼朝の嫡男、母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。
若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。
合議制成立の3年後に頼家が重病に陥ると、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡する。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。
源氏公園内の指月殿隣にあります。源頼家の墓の説明。
石柱は元禄16年(1703年)頼家公500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑。本当の墓は記念碑の裏にある三基の小さなもので、頼家、側室の若狭の局とその子一幡のものといわれています。
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