犬山城 いぬやまじょう
1537年(天文6)、織田信康により築城。展望台からは濃尾平野を一望できる。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」。
現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、現存天守は国宝に指定された国宝四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)にも選定されている。
※2015年5月16日、島根県の松江城が国宝指定され国宝天守は5城となりました。
荻生徂徠が李白の詩になぞらえ白帝城とたたえた城。
前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川光吉が改修し現在のような形となった。この際の建築用材は金山城の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承がある。
犬山城の歴史
●天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築城。
●天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となるが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城。
●天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となるが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城。
●天正10年(1582)「本能寺の変」後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
●天正12年(1584) かつての犬山城主・池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、信雄失脚後は三好吉房などが城主を務める。
●その後、城主はめまぐるしく変わり、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城。
●1607年(慶長12年) 平岩親吉、親吉甥の吉範などが城主を務めた、以後江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成(なるせまさなり)以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城。
現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろ。近年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人に譲渡されている。
住所 | 犬山市犬山北古券65-2 |
営業時間 | 9:00~16:30(閉館17:00) |
料金 | 大人550円、小・中学生110円(30名以上で団体割引あり 1割引) |
休業日 | 無休(12月29~31日休) |
駐車場 | あり(有料)1台500円 |
アクセス 公共交通 | 名鉄犬山線犬山遊園駅から徒歩15分 最寄駅 > 犬山遊園駅(名鉄)~1.095km |
リーフレット | |
出典:犬山城 天守から見た風景
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公開サイト | inuyama.gr.jp/castle.html |
問い合わせ | 犬山城管理事務所 |
TEL | 0568-61-1711 |
レポート
木曽川の南岸にそそり建ち、戦国時代を象徴するようなお城でした。尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置し、国盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わりました。
天正12年3月、秀吉軍の池田恒興(美濃・岐阜城主・信長の乳兄弟)が、犬山城を奇襲して占拠したことで、小牧・長久手の合戦(1584)に発展していきます。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と唯一の直接対決をしています。以後小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、二度の小競り合いがあっただけで、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。
江戸時代に入ると、尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、幕末まで続きましたが、明治維新による廃藩置県のため、愛知県所有となりました。明治24年の濃尾地震で半壊し、その修復を条件に城は再び成瀬家の所有となり、平成16年に財団法人に移管するまで日本で唯一、個人所有の城でした。
駐車場。犬山城入口。右手に三光稲荷神社を見ながら坂を上っていきます。
矢来門の跡、矢来門は専修院(東門)に移築されているそうです。黒門の跡、明治9(1876)年、徳林寺に山門として移築。坂を登りきると「岩坂門」跡があります。
※明治4(1871)年、廃藩置県によって廃城となった犬山城は、天守閣と櫓を除いてほとんどの建造物が取り壊されてしまったそうです。その際に払い下げられた城門が丹羽郡の徳林寺と専修院に移築され現存しています。
岩坂門付近に入場券売り場がありました。入場登閣券、大人一人550円。本丸門から入口。
犬山城が見えてきました。犬山城の歴史案内板。正面から見た犬山城。
犬山城を見上げた様子。神木「大杉様」付近から見上げた様子。
神木「大杉様」付近から木曽川方向の櫓を眺めた様子。角度のある城壁。城右手に櫓に囲まれた杉の木・神木「大杉様」があります。犬山城築城の前から隣に立ち、防風、落雷から犬山城の身代わりになって守って来た伝わっています。
城正面、高欄の間の下。城左手には、石落としの間があります。
城内に入り、急な階段を登って天守閣最上階を目指します!2階は中央が武具の間となっていて、東南すみには約8畳ほどの「付櫓」がありました。付櫓の説明。側面から攻撃のを防備するために作られたそうです。
北西すみには「石落しの間」。石落しの間の説明。石を落として石垣からの侵入者を防いだそうです。石落しの間から木曽川を望む。
荻生徂徠が李白の詩になぞらえ「白帝城」とも呼ばれています。鬼瓦(天文6年(西暦1537年)犬山城築城当時に使用した瓦で、慶長年間城を修復した時に取替た鬼瓦とのことです)。鯱瓦。上段の間(城内の殿様の居間)。
天守閣構造の大要。亀の甲羅に桃がのった形をした魔よけ。全部で8箇所にあり、望楼からは6箇所みえるそうです。
3階には「破風の間」があります。破風の間の説明。天井部分、この上が望楼の「高欄の間」になっています。
4階には「高欄(こうらん)の間」があります。回廊は、成瀬氏による増築とされ、高欄と廻縁(まわりえん)がまわる望楼となっています。北側と南側。
廻縁から南下方向を望む。西方向を望む。魔よけ。
西方向、木曽川を望む。西南方向。高欄の間に頭上に掛かる国宝指定書。
七曲門(別名見晴門)。 高節凌雲霄(こうせつりょううんしょう)の石碑。鯱瓦のアップ!
犬山城下町の風景。